市は、官製ワーキングプアーをなくそうと、市が発注する事業で働く労働者の賃金を一定額以上とする、公契約条例を2012年に提出しました。しかし、ビル管理業界などの反対が強かったことから、市は、条例案を一旦撤回し、罰則規定を猶予する見直しを行い、第3回定例市議会に再提出しました。
10月31日の市議会本会議では各会派の代表が討論に立ちました。自民党の飯島市議は、「公契約条例は労働者側の待遇改善を優先するものである。今必要なのはデフレからの脱却であり、企業が健全経営によって利益を労働者に還元できるようになることが大前提。公契約条例は企業経営を阻害するものである」と、まずは企業がもうかることが大切、労働者の賃金は二の次との立場で条例案に反対しました。
公明党の阿知良市議も、「まずは、企業の健全活動が必要。商工会等関係団体からの理解が得られていない。むしろ市との溝が深まるばかりである」として、企業側の立場で反対しました。
日本共産党の宮川市議は、「清掃や警備などの仕事では最低賃金となっている。これでは月12万円5千円にしかならない。夏期の生活保護基準13万円をも下回る。働いても生活保護以下という現状を市議会として放置するのか。市は労務単価の引き上げを行ってきた。それに比例して一般管理費も増えており、企業の利益は増え続けているはず。人件費を企業の赤字補填に使うのはおかしい。労賃タタキで受注競争が行われている。この状況を事業者も力を合わせ改善していくべき。市からの受注事業と一般事業で労賃が異なるという二重賃金の問題は現実の場でおのずと解決される。条例制定を求め提出された10万人の署名を重く受け止め成立を」と熱く訴えました。
民主党・市民連合、市民ネットも条例案を採択すべきと主張。
改革・みんなの会の金子市議は、「公契約条例は公権力による企業への介入。賃金はバランスで決まる」と反対しました。みんなの党の木村市議も、「札幌は(条例を制定している)川崎や野田とは経済状況が違う。まずは経済回復が大切」と企業優先の立場から反対しました。
条例案は36対31で否決となりました。その後、議員動議で、別の公契約条例案が提出されましたが、これも、1票差で否決となりました。
日本共産党の豊平区委員会と地域の後援会は、連休初日の2日、中の島駅前と福住駅前で、署名宣伝行動を行いました。
午前は中の島駅前で、スーパーに買い物に訪れた人や、地下鉄から降りてくる人々に、原発のない北海道を求める100万人署名とともに、消費税増税の中止を求める署名、秘密保護法に反対する署名を訴えました。「前回は時間がなくて署名できなかったが、今日また署名をやっていてよかった」と駆け寄って署名してくれた方もいました。
中の島駅前は6名とやや少ない参加でしたが、福住駅前では12人が参加し、同様の署名を訴えました。マイクからは、「この署名は第4回定例道議会に提出します。100万人の署名を集め、高橋知事が『泊原発は廃炉にして欲しい』とする私たちの立場に立つようにさせましょう」と訴えました。また、「日本共産党は草の根の署名で世論を広げるとともに、先の選挙で躍進した国会の場でも論陣を張って、原発ゼロのために頑張ります」と、公約実現に奮闘することを訴えました。
安倍首相は今国会で、秘密保護法を制定するとともに、国家安全保障会議を設置し、解釈改憲とあわせ、日本を戦争のできる国にしようとしています。こうした危険な動きを止めようと、道内104の九条の会で構成する、北の国から「平和・憲法・市民」集会が、1日夜、教育文化会館で開催されました。
集会では、冒頭、構成する各九条の会の代表が壇上に並んで開会の挨拶を行いました。
第1部では、八重山民謡第一人者の大工哲弘氏が、「沖縄を返せ」をバラードにアレンジした「沖縄かがやけ」や、「憲法9条皐晴れ」、「命どう宝」などの歌を力強く歌いました。いずれも、沖縄民謡の哀調を帯びた調子の中にも、聞く者にとって、平和のために頑張る勇気を呼び起こさせるものでした。
第2部では、「行動する市民が世界を変える」と題して、中央大学の目加田説子教授が講演しました。
冒頭、目加田氏は、「秘密保護法制定、国家安全保障会議設置、解釈改憲による集団的自衛権の行使が現実味を帯びてきている。今の情勢は民主主義に対する戦後最大の危機と言って良い」と、安倍政権の危険性を強く指摘しました。
目加田氏は、市民運動が世界を変えてきた例として、奴隷解放と核軍縮をあげるとともに、自身も関わっている対人地雷禁止条約について、いかにして市民運動が世界を変えたかについて熱く語りました。
そして、「1人1人ができることに取り組んで、日本を戦争のできる国にしようとする動きを止めよう」と訴えました。
ヨーロッパ原産で、2000年前から栽培されていましたが、日本へは18世紀にオランダ人によって持ち込まれたとされています。当時はもっぱら鑑賞用だったようです。
明治4年には北海道開拓使がアメリカから種子を持ち帰り栽培したとされていますが、食用としての本格的栽培は、1923年岩内町で始まったとされています。
雄株と雌株があり、雌株では夏に花が咲き、実が実ります。実は直径1cmにも満たない丸い実で初めは緑色ですが、秋が深まるにつれ熟し、赤くなります。中には種が入っています。
アスパラガスというと株分けして増やすのが一般的ですが、この種をまいてもアスパラガスが生えてきます。
13年11月10日付「豊平区新聞」より